ミュンヘンやローマ、カラカス、イスタンブールで私と母が送っていた遊牧民のような複雑な生活をアリョーシャ/ソーニャ/ケーニャがしたいと言っても、私は絶対に認めないでしょうね」
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「私はずっと旅して生きてきた。子供の頃は転校の繰り返しで、誰とも仲良くなれなかった。だからいまは、自分の場所にいたいし、子供たちを置き去りにしてどこかへ行くなんて嫌なの」。彼女がヨーロッパを離れてアメリカへと渡った15年の間、80年代の半ばには美しさを極め、名声を獲得し、騒動を起こしたり足元をすくわれたりすることもなく、ナスターシャ・キンスキーはハリウッドに根を下ろし、もうそこから動こうとはしなかった。
「アイディンティティなんてものにはほど遠い、明確な個性さえもほとんど発揮できない時期があったの。私には存在価値がない、もっとはっきり言っちゃえば何の才能もない、とさえ思っていた時期がね。私は実際、気が触れるほど愛されたい、認められたいと思っていたの。家族がいなかったせいで、いつも困惑していたというのがその理由ね。いまは子供たちにおかげで、最終的には自分を取り戻すことができたわ。彼らは私の人生のすべてだし、私を生き返らせてくれるのよ」。というわけで、ロス・アンゼルスを離れ、ナスターシャは空気の澄んだ地方の大きな家に引っ越した。彼女はそこで3人の子供たちと幸せに暮らし、その小悪魔的な魅力とソフトな雰囲気は、彼女の悲痛な役柄や小さなスクリーンに良くはまっている。ジョゼ・ダヤン監督による『危険な関係』で、ナスターシャ・キンスキーは純粋で聡明なマリー・トゥールヴェル夫人になりきった。ロジャー・ヴァディム監督版ではアネット・ストロイバーグ、スティーヴン・フリアーズ監督版ではミシェル・ファイファー、ミロス・フォアマン監督版ではメグ・ティリーが演じた役だ。「私以前にそういう女優たちが演じたのを見てきたから自分に問いかけたの、『でも私にはほかに何ができるっていうんだろう?』って。そしたら以前よりましてカメラを怖く感じるようになってパニックに陥ってしまった」。ナスターシャは15年ものあいだ足を踏み入れていなかったフランスに帰り、仕事に臨んだ。「この数年間、私は自分の家を離れようとしなかった、私は自分の子供たちと一緒にいることを望んでいたから。いままでもそうだったし、いまもそうよ、少しの時間でも子供たちと離れたくないの。よくカナダやフランスでの仕事のオファーを受けとっていたのだけど、いつも家から遠すぎるということで断っていた。いまはもうこれ以上旅をしたい気分じゃないのよ。今日は、昨日決定した違う人生設計のスタートの日なの。子供たちが気を使ってくれて、私もしぶしぶ彼らを犠牲にすることに同意したのよ。この仕事が自分にとって大きな意味を持つということがわかっていたからね」
彼女がジョゼ・ダヤン監督から直々に『危険な関係』出演への申し出を受けたとき、監督の熱意は(ナスターシャがその役にピッタリだという)確信に満ちていたという。「実際、私も特別な仕事だと思ったし、すぐオーケーと言ったの!」 ナスターシャはその役を自分の母親のことを考えながら演じた。「60年代の終わりごろの母を思い出したの。彼女は情熱というものを常に忘れない女性だったわ。そして、私は人間の内面の大切さとか恋愛の危険性とかを教えてくれた母に感謝しているの」 ナスターシャは自分の2人の娘、息子にもその教えを受け継いでいかなければならない。長男であるアリョーシャは19歳のミュージシャンで、西海岸にて自分のバンドを率いて活動している。17歳のソーニャは女優志望、父親はエジプト出身の映画製作者イブラヒム・ムッサだ。そして10歳のケーニャはアメリカの音楽家クインシー・ジョーンズを父にもつ。そんなわけで彼らはこの母親に連れられて場所を転々、スコットランドからサントロペまでやってきた。彼女は既に5年前、クリス・メンゲス監督/ダニエル・オートウィユ共演の『ロスト・サン』の撮影でここに来たことがあったが、そのときはアメリカで子守りを雇うことでなんとか乗り切ったという。ナスターシャは滞在日数を数える──全部で10日間ぐらいだったかしら──カリフォルニアで思い出す、自分の歳以上に歳の離れた夫たちとの別離。『テス』でヒロインが子供を授かるシーンがあるでしょ。13歳で私がはじめて恋に落ちたとき、私は既に母親になりたいと考えていた。母親になるということは、天が私に授けてくれた最高の贈り物よ。子供たちなしの生活なんて想像もつかない」 子供たちを守り、育てるために、ときには自分の歳以上に年齢差のある子供の父親と裁判で争うのだ(ロス・アンゼルスの法廷で実際に争った)。
ヨーロッパで3ヶ月という長期間の仕事を受けるということは子供たちを一緒にいられないということで、ナスターシャは大切な娘たちをしぶしぶ家に置いてきたのだった。プロデューサーのジャン=リュック・アズーレイは自分の制作会社のデータ作成専門家に、この女優の子供たちにその気があるなら特別に現場に招待してはどうか、簡単なインターネット接続環境を用意すれば彼らもそれぞれの勉強を続けられるだろう、と頼んだのだ。コンピュータのスクリーンに向きあえば、ヨーロッパのある場所から他の場所へアクセスし、この二人の女の子は母親が勉強の面倒をみれなかったとしても、学校が休みの間だろうが毎日の課程をフォローできるし、授業の課題を終わらせることができる。そうすればその乳白色の肌と滑らかな声をもつナスターシャは、憧れていたチームを結成することになるのだ。彼女はかつて『テス』『ワン・フロム・ザ・ハート』『パリ、テキサス』『マリアの恋人』『キャット・ピープル』等の作品で知られ、それらが名作となることに貢献している。「私はいつも仕事を必要としていたし、それが3人の子供に対して責任を全うできるものかどうかには疑問を感じていたわ、プロの世界というものには浮き沈みがあるしね。特にそう思うのは、私の父が母を捨ててからというもの、厳しい時期を過ごしたという記憶があるからなの、私たちはそれまで持っていた食べ物から何からすべてを売り払って、遊牧民のごとくミュンヘン、ローマ、カラカス、イスタンブール、果てはブリュッセルまで転々としたのよ」。2度の窃盗を働いたという子供時代(それは13歳のときにヴィム・ヴェンダースの『まわり道』で聾唖のジャグラーを演じたときに始まっていた)のせいで、彼女の夢は自分だけの家族を作り上げること、そして友情を築くこととなった。もし今日、彼女が世界市民であることを自覚し、5カ国語を話すが故に、世界国家としてのアメリカに住むことがとても幸せであるなら、フランスは彼女が晩年に過ごす場所の候補の一つになるだろう。「いままでずっと、私が旅してきた場所のどこで喜びを感じるか試してきたのだけど、私はどこでも根を張らすことができるの。だけど、もう戻ることはないなんて言ってもいないのに、1日経ったらヨーロッパに来てたりする」。フランスに来るのはいつも楽しいとはいうものの、子供たち、彼女の小さな子供たちや、将来の孫たちに100歳になるまで世話されたいという彼女の夢には勝るものではない。「家族以上に大切なものなんて存在しないわ」。