"Sunday Telegraph" 9th January 2001


キンスキーの家族たち

テキスト:デヴィッド・ジェンキンズ


父親は娘を捨てたセックス中毒、母親は現実を見つめられない空想好きなヒッピーだった。デヴィッド・ジェンキンズがナスターシャ・キンスキーに幼年時代、ナルコレプシー、そして新しい映画について聞いた。

さて、私はまず、ナスターシャ・キンスキーに『キャット・ピープル』の監督、ポール・シュレーダーとのエピソードについて聞いてみた。キンスキーはシュレーダーとの恋愛関係が破綻したとき、こう言ったそうなのだ──「ポール、私はいつだって監督たちと寝てきたけど、あなたとは無理だったわ」。

みるみるうちに、キンスキーのグレイ・グリーンの瞳から輝きが消え、その声も自信が失われた、暗いトーンになってしまった。「わかっているでしょう…」と、ブルーベリー・マフィンの残りを砕きながら彼女は続ける。「あれは馬鹿げた、信じられない噂の一つだったわ」。「まったく! どこからそういう話が出てくるんでしょう? 私は絶対に、一言でもあんなことを言ったことはないのに。それに私は絶対に…」。彼女は一息ついて考える。「…厳密には一緒に仕事をして関係をもった人が一人いたけど。他の監督とはない。絶対にね」。

しかしそのエピソードが嘘だったのは本当に残念だった。私は言ってみた。「いまのは軽いジョークですよ」

「そういうのは他の人にしてくださいよ。私のことじゃないんだから」と言って、そのドイツ出身の女優は普段の笑顔に戻った。「かといって、私や私の実際の発言と必ずしも遠いというわけじゃないんですよね。私がどう思っているかわかるでしょ? 人はみんないろんな想像をするし、昔の私に対してもいろんな解釈があったと思うのです。そして、その多くはただの幻想なのですよ」

1982年、人類はナスターシャ・キンスキーを発見した。世界で最も美しい女性の発見だった。彼女は21歳にして既に、ロマン・ポランスキー、ヴィム・ヴェンダース、フランシス・フォード・コッポラ、ウォルフガング・ペーターゼン、そしてマルチェロ・マストロヤンニと仕事をしてきた女優だった。彼女の父親は、悪名高い狂人であり、悪名高いカリスマであり、信じがたいほどに破滅的なドイツの俳優、クラウス・キンスキーであった。彼女は、8歳のときにその父親に捨てられたことにより、傷つきやすい心を持っていた。「私には自尊心というものがまるでなかった。片親が荷物をまとめて出ていったときは、自分には何の値打ちもないんだと思ってしまうものなの」。その少女は母親のビッギに連れられていた。その母親自身も、ベルリンのとあるグローブショップからクラウス・キンスキーと駆け落ちしたとき、まだ19歳という若さだった。クラウスは速いクルマで彼女を幻惑し、アッピア街道の夢のような豪邸で彼女を魅了した。しかしクラウスの浮気は続いた。彼は現実の世界とは婚約できなかったのだ。ナスターシャは最初の映画(それをデビュー作と呼ぶようになったのは最近のことである)に出たとき、12歳でも家計を支えられるということに誇りをもっていた。彼女は、たくさんの学生たちのベッドルームに貼られたリチャード・アヴェドンの写真の中で、蛇だけを体にまとっていた。そして1984年、麗しく忘れがたい『パリ、テキサス』に出演した彼女は、確実に世界で最も有名なスターになった(ように見えた)。

「ああ、わかってるのよ!」と、国際的な活動による影響からか、魅力的なアクセントをともなうアメリカ英語でキンスキーは言う。「ときどき皆さんは何があったのか知りたがるんですよね。でも私は本当にわからないの。みんな、正しい選択も、間違った選択もするでしょ。普通に生きていれば、それなりにいろんなことがあるってだけのこと。『ザ・クレイム』(彼女の最新作)で一緒に仕事をした全ての素晴らしい役者たちに感じたのは、安心感だった。いつもそのようなクオリティの仕事ができるとは限らないのよ。 いつでもこういうことが言えるわけじゃない。だってこういうことってないんだもの。少なくとも、私はそういう経験がなかったわ」。ここで彼女は、汚れたB級イタリア映画で生贄のように祭り上げられた1984年から1992年までの8年間を振り返る。また、23歳にして妊娠し、息子のアリョーシャを産み、彼の父親であるエジプト人映画製作者イブラヒム・ムッサと結婚した事実も振り返る。2人はまた、現在14歳になる娘ソーニャももうけたが、1992年に離婚し、目下対立状態にある(キンスキーは彼のことを「あの人」と呼ぶ)。キンスキーはもう一人の娘、現在6歳になるケーニャを音楽プロデューサーであるクインシー・ジョーンズとの間にもうけている。彼女とジョーンズはもう別居しているが、その関係は「良好」だという。

現在でも、多くの女優たちは23歳という若さで子供を生んだりはしないし、妊娠するまえになんとしてでもスターの座にのぼりつめようとするものだ。幼い頃父親に捨てられたキンスキーは彼女たちとは違ったのである。「私は家族というものを持ったことがなかった」。「そしていつも自分の家族がほしかった。いまの私には小さな子供達がいる、それこそが私の望んだことだし、いたい場所なの。そこにいなきゃいけないのよ」。

そこにいなきゃいけない──彼女の父親のように? いや実際には、母親ビッギのようにだろうか。キンスキーはかつて母親との関係を熱心に語ったことがある。「彼女は私にとって太陽のような人なの。私がジャングルに迷い込んでも、彼女が守ってくれる。ライオンの母親のようにね。彼女と喋っていると本当に楽しい」。しかし今では、2人は会話の機会をもたない。「話してみようと頑張ったのよ」と、キンスキーは告白する。「でも彼女は口をきこうとはしなかった。彼女は別の道を行くことを、私たちと一緒にいることを拒否する人生を選んだの」。ビッギはナスターシャの結婚に反対し、孫たちの面倒もほとんどみなかった。彼女は母を一人の詩人として思い出すことが多いという。「彼女は物書きで、私は彼女の詩は美しいと思っていた。でも彼女は決してそれを出版しようとしなかったの。臆病だったのよ。ずっと彼女は自分自身に保守的だった。だから私は言ってやったの、生きるためには考えを伝えなければだめだと」。しばらくの間キンスキーは考え込む。「それから私は母に言ったわ、人生は永遠じゃない、私はママがやりたいことをやってほしいんだ、ってね。あとで後悔するのは誰でもできるんだから」。

それこそが、キンスキーの悲しく、非常にドラマチックな人生の原点なのではないだろうか。インタビューの前に、彼女は30分以上の間、黒いリムジンのウィンドウに隠れて座って、携帯電話に話しこんでいた。やっとクルマのドアが開き、彼女があらわれたが、電話はまだ彼女の栗色の髪の毛にくっついたままだった。激しい身振り手振りを交え、歩調を早くしたり遅くしたりして彼女はハリウッドの舗道を歩いた。そしてイラついたり、語気を強めたりした。その後、撮影の直前にも、彼女は携帯電話ごしの熱い会話を続けていたのだが、急に取り乱して「こんな話は聞きたくないわ」と言うのだ。「私はこんな話は聞きたくない…私はたくさん愛して、たくさん世話して、たくさんの時間を過ごしたいだけなの。そういう話は悲しくなるだけよ…」

しかし彼女はさすがベテラン女優だ。彼女と会ったとき、その笑顔が魅惑的なあまり、謝罪の気持ちが沸いてきてしまった。彼女は気管支炎にかかっていて、「大きな抗生物質」を服用している、ということだった。彼女は空咳をしていた。明日からは全てオフをとっているという。「あなたたちがイギリスからはるばる来ると聞いてね」。そういうわけで、彼女はハリウッドの大通りから外れたマジック・ホテルのプールサイドに座り、可愛らしく、ハーブティとジュースと、確かマフィンを頼んでいた。彼女はちょうど40歳であるが、まだまだ非常に美しい。『ザ・クレイム』では既に、1849年のカリフォルニア・ゴールド・ラッシュにおける結核持ちの母親を演じている。イギリス出身の監督マイケル・ウィンターボトムは、母親役の彼女が血を吐くシーンを撮ると同時に、彼女自身の骨太な体や、大きな唇、大きな目をクローズ・アップで撮ることに成功している。

しかしながらこの役は、十分に考慮されてオファーされたものだった。キャスティングというものは必ずしもそうではないのだ。親身な、インターネットのあるファンサイトは彼女を「魂の女、人類と同時代に生きる女神、人間の深層心理における愛情の対象」と賛美している。皮肉なことに、その肉感的な唇とまじめな瞳をもつキンスキーは思春期前の少女時代にデビューしたために、彼女のひとつの側面だけがスポットをあびる結果になってしまった。大人になりきれない女、というものである。彼女は12歳の時、ミュンヘンのディスコでヴィム・ヴェンダースの妻にスカウトされ、ヴェンダースの『まわり道』(1974)ではトップレスで登場し、大人の男に消極的なビンタをうける被害者となっている。『悪魔の性キャサリン』(1976)では、14歳の若さで尼を演じ、極悪人クリストファー・リーが子供を孕ませようとする強い欲望に苦悩する。同じ頃、ウォルフガング・ペーターゼンの『危険な年頃』(1977)で、教師と不倫する女子校生役で主演。2年後、彼女は再び『レッスンC』で悪戯な女子高生を演じた。「この頃の作品のコピーを全部見つけて焼いてしまいたいわ」と彼女は言う。そして同年、いまいましい『今のままでいて』でマルチェロ・マストロヤンニと裸で登場するのである。キンスキーは、やはりあの作品は悪用されていると感じたのだろうか?「言い方を変えましょうか」と彼女はいう。「もしあれが私の娘だったら、私は許さないでしょうね。私はあの人たちが言ったことを受け入れなかったでしょうし、受け入れようともしなかったでしょう。彼らは私がとても若かったから、やっちまえって感じだったのよ。彼らはどんな娘に対してもそうなの。だからロマン(・ポランスキー)がやってきて、私にテスをやらせたとき、なんていうか…私に威厳のようなものを与えてくれた。私の言いたいことが分かる?」

テス』(1980)――敬虔な、トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』をもとにした3時間という長さの映画――は、キンスキーを成熟した、国際的な映画スターにのしあげた。ポランスキーは彼女の良き指導者だった。「彼は私に非常に厳しくあたり、本をたくさん送ってきて、学校にまで行かせたわ。私たちが映画をやったとき彼は言ったの。『僕のためにこれをやってほしいんだ、本当だよ。僕の妻(殺された女優のシャロン・テート)のためにもそうしたいし、とても意味のあることだから。ただ、君がこの映画をやるにあたって一つやってほしいことがある。ウェセックスのアクセントを覚えること。そのために、君はイギリスで4、5、いや6ヶ月過ごしてもらって、戻ってきたらテストをしよう』ってね」。キンスキーはテストに合格し、ポランスキーは「最大限の敬意を払ってくれた。そのすべてが非常に真剣なものだった。彼は、最高のセンスをもった、非常に厳しい人だった」という。

彼とは恋愛関係にあったのだろうか? 「うーん、私の口からは言えないわ。言えるのは彼を愛していたということ、そしてこれから先もその想いは変わらないだろうということね」。

だが、当時はキンスキーが彼と寝ているという仮定が常にあった。

「だって、それは単なる仮定でしょ」彼女は笑う。「そう、彼は私の人生の中で気にかけた人間の一人でしかない、でしょ? いったい誰が私を真剣に受け止め、大いなる強さを与えてくれたでしょう」。キンスキーは強さを渇望する。彼女は実際「強い手」を必要だった、と言う。「そうね、でも私には黙って支えてくれる強い手が――厳しくあるために、注意深く、正しい行動ができるように誰かが支えてくれることが――必要だったの」。

確かに、彼女の母は自分の娘に十分な注意を払わなかった。(婚外性交渉に貪欲な)クラウスが1969年に妻と娘のもとを去った後、ビッギは世界を放浪した。彼女流のヒッピーな旅行だった──「私のママは本当に何も持っていなかったし、働くこともできなかったの。なぜかは思い出せないんだけど」──残されたナスターシャは自力でドイツの家へ戻った。ナスターシャは彼女の注意を引いた。彼女は盗みを働き、ママのために家にお金を入れた。バスの無賃乗車までした。それで逮捕されたこともある。何度もだ。逮捕令状を突きつけられても2人はそれを無視した。そして、ナスターシャの顔が広く知られるようになったとき、当局は空港で彼女を逮捕し、少年院に放り込んだ。「怖くはなかった、自分から招いたことだったし。そこに…たぶん3ヶ月いたんだけど、もっと長いように思えたわ。でも、ただただ平和だった。そこにいた他の女の子たちと仲良くなれたし、夜中はずっと考え事ができたしね。辛かったこともあったけれど、それを言葉で表現するのはむずかしい。私は外に出たいとも思わなかったけど、そこですごす時間もどうでもよかった。私が自分の進む道を選べるようになったのはその後だったように思う」

だが彼女は? キンスキー家では常軌を逸した父親が実の娘を捨てるという家庭崩壊が起こっていたのだ。『テス』でも彼女は捨てられるし、『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)でも、『パリ、テキサス』でも彼女は男に捨てられる役なのだ。また最新作の『ザ・クレイム』では、彼女のみならず娘までもが、金鉱の権利に目がくらんだ夫に捨てられる(売り飛ばされる、といっても過言ではない)設定なのである。彼女は言う、「本当に、私はしっかりした、安定した生活に憧れるの」。父は娘を見捨てるかわりに、とても魅力的な雰囲気と、映画人特有の狂気を与えた。(彼は娘がぐっすり眠れるように、サラという名前の犬を与えた。後にその犬は毒殺されている。)彼の、ほとんどポルノといっても過言ではない自伝「Kinski Uncut」によると、セックスおよびセックスに関する異様なまでの欲望に取り憑かれていた彼は、ナスターシャの母親を絶え間なく悩ませ、最後には彼女と娘を捨てることとなった。しかし珍しく彼の優しさが垣間見える一節もある。彼がナスターシャと他の2人の子に自分のところへ遊びに来るよう言ったというのだ。「あの娘はまるで怖がってるみたいに私に助けを求めてくるんだ。そして、絞り出すような声で言うのさ、『あなたは…私を…愛していない…』とね」。

「完全な作り話よ」、ナスターシャは断言する。本当だろうか? 「私はその本を読んでいないし、読みたくもない。でも私は知ってるの…彼がよく話をでっちあげていたことをね。とにかく、そんなエピソードはなかった」。だが、彼女は彼に二度と会わなかったのだろうか? 「いいえ、私は彼に長い手紙を書いたの。彼がそれを読むことはなかったのだけど。私は手紙で私の思いを彼に伝えようとしたのよ、1通の長い手紙でね」。

その手紙は苦々しいものだったのかもしれないが、それと彼女の望みは違っていた。「私はいつも考えていた。『きっといつか、きっといつか彼は戻ってくる』ってね。でもそのときはついに訪れなかった」という。「父が(1991年の11月に心臓発作で)死んだとき、私は最後の5分間、深い悲しみにおそわれたの。それはとても激しいものだったけど、あれからそういうことは一度もないのよ。父は私たちにたくさんの痛みを与えたから」。彼女が父親から受けた仕打ちによる影響はフロイト学派の分析にほとんど当てはまってしまう。つまり、ナスターシャはポランスキーと出会ったとき彼より27歳若く、1984年に結婚したときは夫より14歳若く、1992年にクインシー・ジョーンズのもとを去ったときは彼より28歳若かった、ということである。40歳にして、彼女はいまだに監督達や恋人、友人に父親の面影を求めるのだろうか?

「うーん、何人かの…そう、監督達にはね。だから私はたくさんの医者を知っている──私が考えられる以上にたくさんの医者や看護婦をね。権威のある人間は、周りを気にしやすい印象を持つことがある。そう、自分の存在感を気にするの。そして当然、父親をもたない子供は、他の人々に父親として受け入れてもらいたかったり、そういう要素を求めたりすることがある。いや、でも私は父親の面影とかそういうのを求めていたんじゃないと思うわ」。(彼女の前夫、イブラヒム・ムッサはこの意見に同意しないだろう。「彼女は私と結婚したいと言ったことは一度もない」と、彼は発言していた。「私は一人の夫としてより、一人の父親になりたかったのだ」とも。)

彼女が信頼のおける監督のなかから自分の父親を選ぶとすれば、57歳のテレンス・マリック(彼女は『天国の日々』がお気に入りなのだ)、63歳のウォーレン・ベイティ、そして82歳のスウェーデンの巨匠、イングマール・ベルイマンが挙げられるそうだ。彼女はもはや「ただ生き残るためだけに」映画に出ようとは思っていない。彼女は、とどのつまり、ベストを尽くして仕事をしてきただけだ。しかし彼女はまた「そのような姿勢とは異なる──非常に痛々しい作品」にも出演した。(おそらく、1994年のアクション映画『ターミナル・ベロシティ』や、1996年の『ダニエル・スティール 標的』が彼女の心の中で最たるものだろう。)現在の彼女は「非常に挑戦的な」人々と仕事をしたいと思っていて、非常に挑戦的な課題を引き受けたいと思っている。彼女は謙遜の笑みを浮かべながら言う。ローマ教皇や、ネルソン・マンデラ(現・南アフリカ大統領)、そしてレニ・リーフェンシュタール(ヒットラーの好きな映画監督)のドキュメンタリーを作りたいのだ、と。

しかし、彼女は自分が生き残らなければならないということを認める。自分を頼りにしている人々がいるからだ。確かに、彼女は自分の子供のことをよく話す。親という仕事がいかに重大であるかを。子供たちを危険から守り続けるのが彼女の仕事なのである。「私が言えるのはそれで全部よ」。(彼女はそういうことを口にしないが、アリョーシャとソーニャに対しては裁判所が下した3つの決定事項があった。そのひとつに、キンスキーの許可なしにムッサが子供達を病気のおばあちゃんを見舞わせるため、エジプトへ連れていった、というのがある。その結果として、彼はキンスキーの許可無しでは子供達に会えないことになった。)悲しいことに、女性にとって「家族」という言葉は非常に憧れるものであり、彼女もやはり「家庭」を欲しているが、無力にも彼女はシングルマザーなのだ。

この、長い熱のこもった電話は、思春期の少年を育てることの苦労についてであり、教師、セラピスト、医者の大規模な支援グループについてであった──医者よ!──核家族の代表として彼女は叫ぶ。そんなわけで彼女は忙しい──好きだったドストエフスキーを再読する暇がないほどだ。「たった4ページだって凄く内容が濃いの」。話疲れると、彼女は軽度のナルコレプシー(居眠り症)が悪化していることを告白する。「私はお酒は飲まないし、タバコも吸わない、なにもやらないんだけど──撮影で衣装を着ようとしてたら、突然倒れてしまったの。私を知らない人たちは『彼女はなんなんだ? 売春婦か? なにかやってるのか?』なんて言ってた。決して、絶対に──そんなことはないのよ。でも私は実際に居眠り症という問題を抱えている。もし居眠り症じゃなかったらと考えると、本当の疲れってどういうものなのか時々興味があるわ。でもそれは危険なことなの」

カナダのフォートレス・マウンテンで最初の撮影が行わた『ザ・クレイム』の雪景色は恐ろしいぐらいの美しさを見せてくれる。ストーリーは──ハーディの『カスターブリッジの市長』をもとにした──激しい感情、モラルの欠如、残酷な取引といったものだ。この映画は「ゴールドラッシュのさなかにいた女たちが、病気をもろともしない、時に男性以上の信じがたい強さを持っていた」ことを証明するものであり、その強さは「まさに生まれつき備わっているもの」なのだ、とキンスキーは言う。しかし悲しいかな、この映画は、荒れた前線で生きる苦しみが展開された物語として、大雪の中での前線の生活を描いた映画とし、キンスキーも大好きなロバート・アルトマンの傑作『ギャンブラー』と比較されてしまうだろう。

興行的には失敗であったが、キンスキーに関しては、最近のネイル・ラビュート監督作『僕らのセックス、隣の愛人』(1998)での画廊の女や、クリス・メンゲス監督作『ロスト・サン』でのシャネルのスーツに身を包んだヨーロッパ女は、素晴らしい魅力を発揮していた。この大人になりきれない女性は、今では大人の女性を演じ、時間の経過とともに、意識下に潜む子供的な要素を失ったのかもしれない。どうなのだろうか、いまも彼女は自分のことを好きになれないのだろうか?「役にすぐ影響されてしまうの。そして怖くなる。時々、人々のもつ私のイメージが歪んでいないだろうかと恐ろしく感じてしまう。人々と私の間にある誤解を解きたいの。誤解はいろいろな事態を招くでしょう。明らかにそういう誤解が生んだ事態を時々経験してきたから」。彼女は話を中断し、にやりと笑う。「でもそれじゃちょっと抽象的すぎるかもしれませんね。あいにく、それの意味するところは私のみが知るってことです」

彼女だけが? 確かにそうかもしれない。彼女は恋人を持つべきなのだろうか?

また一つ笑いが起こった。そしてブルーベリー・マフィンの最後の一つが砕かれる。

彼女は言う。「あなたに口出しされることじゃないでしょ?」

ザ・クレイム』は2月9日に公開される。


記事原文(英語)

翻訳:田所典明(NASTASSJA KINSKI JP)

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