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N.16 SETTIMANALE 15 APRILE 2004
最初に思い浮かぶもの、それは悪寒、貞淑、誠実さ。そして、情熱、スキャンダルス、不純さを兼ね備えている。コデルロス・ド・ラクロの小説のキャラクターであるトゥルーベル夫人はヴァルモン子爵に誘惑され、身を滅ぼすのだが、それを演じる女優もやはりそういうタイプなのだろうか。いや、実際にはまるでその逆なのだ。
ナスターシャ・キンスキーがアメリカのテレビシリーズ『危険な関係』でカトリーヌ・ドヌーヴやルパート・エヴェレットとともに主演を張っているわけだが、やはり実際の彼女のイメージとは真逆のものだった。数々の男たちと浮き名を流してきた女なのだ。しかしその30年のキャリアを経て、彼女は潔白な女性となった。少女のころから文字通り映画にその身を捧げてきた生活に終わりを告げ、彼女は私生活を最優先することにした。数々の男たちを巻き込んだ嵐のような生活では、子供たちを守っていくのは容易ではなかったのだ。だからこそ、そこから距離を置いた。できるだけスポットライトの当たらない場所に。撮影現場に現れたのは数えるほどだ。ジョゼ・ダヤン監督の『危険な関係』の後には、リュック・ベッソン製作、クリストファー・ランバート共演の仏映画“À ton image”が控えているだけである。この18世紀の小説は近年になって数々の映画化、テレビドラマ化が行われてきた。特に有名なのはトゥルーベル夫人をミシェル・ファイファーが演じたスティーブン・フリアーズ版だろう。ファイファーもナスターシャに負けず劣らず、魅力的かつ繊細に演じていた。舞台を60年代のフランスに設定し直した本シリーズはすでに数ヶ月前、アメリカのケーブルTVである“WE (Women's Entertaiment)”で放映されており、ヨーロッパでは今年になってドイツから順次放送が予定されている。一方アメリカではDVD版がリリースされたばかりだ。最近リリースされたDVDではもうひとつキンスキーが主役を張っているものがある。フランシス・フォード・コッポラが未来の映画を目指して作った実験作『ワン・フロム・ザ・ハート』だ。彼いわく「映像革命を起こすか、それとも死をとるか」という作品だった。
ナスターシャはこのコッポラ監督作でサーカスの綱渡りを演じたのは1982年のことだった。コッポラは未来ばかりを見つめていたが、ナスターシャは既に長い歴史を作っていた。たった21歳だったのにも関わらずだ。といっても、彼女のバイオグラフィには諸説あり、実際には22歳、あるいは23歳だったかもしれない。公式に発表されている誕生日は1961年の1月24日だ。
最初は子役からスタートした。正真正銘の、小さな少女のころだった。父親は映画史に残る名怪優=クラウス・キンスキー。そんな父はナスターシャがまだ8歳のころに母親と娘の前から消える。母=ブリジットはアマチュアの詩人で、大人になりきれていない大人だった。その性格だけでなく、夫が彼女を家に閉じ込めていたせいで(ナスターシャいわく「父は何もいわずに金や宝石を置いていった」)、嫉妬や妄想に取り憑かれ、外の世界との接触を避けていたのだ。父が出て行ったとき、母は生き残る方法を知らなかった。残された娘は問題解決に取り組むことになる。精神分析の手引きのようなストーリーがはじまった。小さな少女は盗みに勤しむようになる。二度と帰らない父親の代わりを追い求めて。しかしそれが原因で、彼女は15歳にして牢屋にぶち込まれることになった。「いい経験だったわ。ちゃんとしたベッドはあるし、人生でも一番幸せなときだったといってもいいぐらいね。わたしを大事にしてくれる友達もできたの」。家に帰ってお金が一切ないことに気付いたとき、彼女は既に完成されていた美貌を生かてテレビと映画の仕事をはじめる。最初に出演したドイツのテレビドラマは教師と不倫する女子高生の役だった。もう誰にも止められなかった。
そんなふうにものごとが進んでいった。映画の中だけでなく、私生活も含めて。少年院に送られてからたった一年後には15歳にしてあるある男の愛人になっていた。モナコで行われたパーティでロマン・ポランスキーに出会ったのだ。彼はそのとき既に43歳で、若い才能を開花させるのに熱心だった。ナスターシャは彼によってアクターズ・スタジオに入れられ、彼のディーバになるべく演技を勉強する。しかし彼女は女優としては新人ではなかった。名前こそ本名のNakszynskiだったものの、既に数年前にヴィム・ヴェンダースのまわり道でデビューを果たしていたのだ。アルベルト・ラットゥアーダ監督の『今のままでいて』でマルチェロ・マストロヤンニの相手役もこなしていた。しかしこのときの経験は後になって苦い思い出となる。「彼らは私に裸になれと言ったの。私は心の準備ができていなかった。なのに誰も止めようともせず、私は従うしかなかったのよ。私はただのか弱い子供にすぎなかった。誰も私を守ってくれなかった」。その点、ポランスキーは彼女をうまく扱った。彼女の支えとなり、ときに厳しく、ときに優しく接したのだ。ナスターシャがその後出会った男たちもやはりそんな感じだった。父=クラウスが与えるべきで、実際には決して与えたことがないものだった。クラウスが死んだときの彼女の発言は良く知られている。「悲しかったのは訃報を聞いたときから30秒だけ。その気持ちはすぐにどこかへ行ってしまって、お葬式にも出なかったの」
ポランスキーがシャロン・テートを使って映画化を計画していたトマス・ハーディによる悲劇『テス』でキンスキーはメジャー作品デビューを飾ることになる。それから数年は絶好調だった。前述のコッポラ、ポール・シュレーダーの『キャット・ピープル』、ヴェンダースと再会した『パリ、テキサス』といった具合に。そんな絶頂期で、彼女は妊娠してしまう。子供の父親についてはヴィム・ヴェンダースやポランスキー、ジャン=ジャック・ベネックスの『溝の中の月』で共演したジェラール・ドパルデューなど、様々なウワサが飛び交ったが、どれも憶測の粋をでなかった。「一緒に仕事するといつも恋をしてしまっていた」と、この女優は認める。しかしながら、最後にはエジプト出身のプロデューサー=イブラヒム・ムッサ氏との子供であることを公表する。彼女よりも14歳も年上だった。長男=アリョーシャについて彼女は「わたしのすべて。ずっと家族が欲しかったの」と語っている。続いて現在17歳になる、母親にそっくりの長女=ソーニャも生まれている。母としてのキャリアは彼女の新たな目標となり、いまもナスターシャを取り巻いている。ムッサ氏との物議を醸した別離の後も、親権をめぐって暴力的な衝突があったほどだ。そして、ポランスキーと同い年の音楽家であるクインシー・ジョーンズと次女ケーニャをもうけたのは、やはり父親の影を追い求めてのことだったのかもしれない。
いまとなってはお節介な母親としてのキャリアのほうが女優よりも勝っているのかもしれない。ソーニャはこう語っている。「ママはわたしにもっと勉強を優先して、モデルの仕事はしてほしくないみたいだった。わたしたち二人は本当に仲が良くて、わたしたちだけの小さな世界に住んでいるの。彼女は映画関係の人たちとはあまり付き合っていなくて、ロックスター的なアティテュードを嫌っていたわ。Tシャツとジーンズでいるようなフツーの人たちと会うほうが好きみたい」。クインシー・ジョーンズとは悲惨な別れに終わったわけではなく、彼女たちの隣人となった。ナスターシャは主張する。「問題があって誰かが必要なときは、彼が助けてくれる、ということがわかるの」。現在、彼女の良き友人はベル・エアで一緒に暮らす3人の子供たち、3匹の犬、そして3匹の猫である。キンスキーが最後に男性と連れ立って公の場に姿を現したのは2年前、オスカーの授賞式だった。お相手は(1938年生まれの)ジョン・ヴォイトだったわけだが、二人は声を揃えて説明する、「ただのいい友達」だと。ハリウッドスターがよく口にする言葉だが、今日のナスターシャはそうではない。彼女ははっきりとこう言う。「私はただの母親。子供たちが私を完全な人間にしてくれたの。子供たちこそが私の生き甲斐」。多くの人々、そして多くのアメリカ人には受け入れがたい事実かもしれない。彼女のパブリック・イメージといえば、彼女が21歳のときに撮ったリチャード・アヴェドンによる写真だろう。裸になり、蛇だけを体に纏った、あの有名な写真だ。しかし80年代、ハリウッドという悪意に満ちた世界に生きたこの女優は、そこから去り、一切の縁を切ろうとしている。興味があるのは純粋なフィクションだけだという。ルパート・エヴェレットが演じたヴァルモン公爵の腕の中で目覚めたような情熱が、彼女に再び訪れるののはいつになるだろうか。