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自分の人生で恋愛は最も大切なものです、とキンスキーは言う。「映画を撮ると、必ず恋をするの。朝目覚めるときのような喜びを感じる。私が夢中になってないときがあるとしたら、それはただ自分から心を抑えつけているときね。映画を撮るということはそれぐらい情熱的なものなの。自分の人生の全てを投げうって、その映画の中の世界に入り込む。刺激的な体験ね。誰かに、君は病気だ、もう長くない、って言われているような感じよ。そういう状況だったら誰でも残りの人生を思いっきり楽しもうとするでしょ。みんな、バイバイってね。一緒に過ごした人たちに2度と会えなくなるんだから。でも逆に、その短い人生の中の全てのことに対して行動したり、感じたり、空想したりできるのは、その人生がもうすぐ終るものだってわかってるからなのよね。だから私は必ず恋をする。それから、そんな気持ちを通り過ぎて、まるで蛇が脱皮をするみたいに醒めてしまうんだけど、それはまた何か新しい気持ちが生まれてくる証拠だからやっぱり刺激的だな。私の恋愛関係っていうのは激しくて、寛容で、私の手足ぐらい短いものなの。私は相手に全てを捧げてしまう。誰かのために自分の左腕を捧げたとしても、それはあっという間に朽ちてしまう。そして、それが朽ちた後はその痕跡さえ残らないのよ。その関係は宇宙の藻屑となるってわけ。関係を終らせたときは、そんな気持ちね。私が相手を振ったり、逆に振られたりすることもあるし、私から関係を解消したり、逆に縁を切られることもある。私はそれを「人生の流れ」とよんでいるのだけど、これは私をひどく揺り動かすわ。こういうときはいつも挫折感でいっぱいになって、世の中のすべてに疑問が湧き出てくる」
ナスターシャにとって映画製作というものは一種のアートであり、彼女の体から魂を抜け出させ、その体を寝かせて、その肌を露出させてしまう監督たちというのは偉大なアーティストだといえる。「私は監督たちを理想化してしまうの」と彼女は語る。「これは真実ね。そうすることが私には必要みたい。理想化することが果たして良いことなのか悪いことなのかわからないのだけど。でも私はただ朝目覚めて、彼らが私の中に何かを見い出すために仕事に出かけようと思っているだけなの。天国と地獄を行ったりきたりしてしまうような何かのためにね。誰とでもそういうことが起こるわけじゃない。私が理想化する特定の人々とだけそれは起こるの。他の人たちだってとてもいい人たちだったし、私も彼らを喜ばせようと思っていたけど、でもそういうのとは全然違うのよ。今までの監督たちはみんな私のことを「無口で変わった少女だが、人々に強い影響を与える」キャラクターとして描いてた。彼らは決して私にもっと他のことをするチャンスを与えなかったし、私の性格から外れるようなことをさせなかった。自分を晒け出せた、と感じることができたことは今の今までなかったの。今までの私はほとんど監督たちの空想の中の生き物だったわ。彼らが私の中に見い出し、拾い上げたのはそのぐらいのものだと思う。でも例え私が映画のシーンの中の、単なるオブジェだったとしても、私だって生きているのよ。死人なんかじゃない。私は仕事しているときはいつでも、精一杯、全てを捧げてる。今までも、これからもね」
『殺したいほど愛されて』の撮影現場において、キンスキーは自分にかなり批評的であった。一つのシーンで監督が「カット!」と言う度に、彼女は必ずといっていいほどもう一度撮影できないかと監督に聞いていた。「ある意味、私って新しいテイクを撮る度にパニックしてるように見えるでしょうけど、逆にいうと私は何か全く別の新しいものを欲しているのよ、まるでドラッグみたいにね。同じシーンを何度も何度も繰り替えして、もうそれ以上はやる必要がないってわかったら監督のハワードに言うの、失敗もした、でも私はやらなきゃならなかったのよ、って。ひねくれてるけどね。そのあとの私は苦しいほどの幸福感に浸りながら、それをやり遂げたことがどんなに良かったかを考えるの。ハワードは笑ってたけど、ムカついてもいたでしょうね。私ってどんなことに対してもそうなの。遅かったってわかったあと、本気になるっていう。それ以上やるのがきつくなってきたり、できっこないことに挑戦したりするときに私は喜びを感じるのよ」
ちょうど13歳になったとき、ナスターシャは『まわり道』(1975)で1人の老人と生きる聾唖のジャグラーを演じた。チャンスが訪れたのだ。ナスターシャは土曜の夜は決まって女友達といっしょにサハラというミュンヘンのロックンロール・クラブに通っていた。『まわり道』の監督の妻はそこにいた彼女を見て、歩み寄って言った、「あなたは誰? どこから来たの?」と。後にナスターシャと呼ばれるようになった女性はこう語る。「映画に出るなんて夢にも思わなかったわ。父は俳優だけど、同じことをするなんて考えもしなかった。私は未熟だった。魅力はあったかもしれないけど、たくさんの問題を抱えてたの」
1977年、キンスキーはイギリスのホラー映画『悪魔の性 キャサリン』で主演した。「どうしてあれに出たのかわからない」と彼女は言う。「脚本を読んで思ったの、『面白そう、修道女と悪魔だなんて』ってね」。彼女はドイツ人監督ウォルフガング・ペーターゼン(U・ボート)とともにテレビ映画の製作にも関わった。ナスターシャは15歳にしてドイツ国内で急速に有名人となったのだ。「みんなが私を絶賛していた」と彼女は言う。彼女が次に脚光を浴びたのはマルチェロ・マストロヤンニと共演したイタリア映画『今のままでいて』で、若い女性がある男と恋に落ち、後にその男が実の父親であることが判明するというストーリーだった。「あのストーリーだけは」と彼女は語る。「けっこういいなーと思ったんだけど、作品が良くなかったな」
キンスキーは監督のリクエストでヌードシーンを撮影した。「彼はこの映画の女の子を、若くて隠すものなんて何もないって感じで描こうとしていた。彼女は完全に恋にハマっていて、恋人と朝食をとったり会話をするときには服を着ようとさえしないの。私はすっかり感化されて、オーケーと言った。そしたらプレイボーイ誌が私の許可なしにヌード写真を持ち去って、世界中にばらまいたのよ。なかにはマストロヤンニが写っている部分をカットしているものもあったわ。最悪だった。あのヌードに人々がどんな反応をするかわかっていたし、とにかく最悪の気分だった──私がやったわけじゃないのに、彼らはナスターシャのヌードだ、彼女は君のものだなんてコピーをつけて、たくさんの雑誌でたくさんの人々が私の裸を見たの。いったいどれくらいの人々が私の裸を見たのかわからない、どれくらいの人が裸を見て、ネタにして、トイレの屑カゴに投げ捨てたのか、どれほどの卑劣な男たちが…わからないわ。めちゃめちゃだった。いまでこそ私はあんなことをすべきじゃなかったと思うけど、それにしたってあの話の流れでは、あの女の子のキャラクターにおいてああするのが自然だったのよ。あれをやるのに迷いはなかったし、正しいか正しくないかなんて考えもしなかった。私は赤ちゃんの時から両親が裸で動き回っているのを見ていたの。そういう育ちかたをしていた。それが馬鹿みたいだとも無邪気だとも「あら、悪いことだなんて思いもしなかった」と言うつもりもない。私は自分のスープを飲まなきゃいけないんだと思う(訳注:自分の考えを貫くべきだ、の比喩か?)。いまもし監督がヌードシーンをやってくれと頼んだら、芸術のためだけにして、契約はちゃんと守ってね、って言うつもり。私がいいと思えるものじゃないと絶対にヌードシーンはやりません。私はいつも監督に敬意をもちたいと思ってるの。ああいう経験はウンザリよ。監督がヌードシーンを求めてきて、私がそれに納得できないというのは、裸になる以外に私が映画でできることはないの?って思ってしまうから。だから私はやりたくないの。ヌード写真ってデリケートなものだし、良いものってめったにないでしょ。良いものっていうのは、美しさという視点から人々が鑑賞できるものであり、その状況に調和しているものだわ。体というものは、究極的には、美しく、神秘的なものなのよ」
15歳のとき、ナスターシャはミュンヘンで催されたあるパーティで監督ロマン・ポランスキーに出会った。彼はオペラ『リゴレット』の製作中で、滞在していたホテルに出演者から数人を招待していた。キンスキーは2人の女友達と一緒に来ていたが、そのうちの1人がポランスキーとも顔見知りだった。キンスキーは語る。「みんなでこう言ってたの、『ああ、ロマン・ポランスキーに会いたい』ってね。彼は本当に楽しい人だった。明るくてね。私たちに食事や飲み物を振る舞ってくれたの。私のことはたいして気になってないみたいだったけど、後になってから話すようになった、それが私たちの出会い」。ポランスキーは彼女に『ヴォーグ』の1976年クリスマス号のためにモデルをやる気はないかと尋ねた。ポランスキーはキンスキーに英語の勉強のためにアメリカに渡ること、ロスアンゼルスで演技のレッスンを受けることも提案した。彼女は語る、「リー・ストラスバーグの学校に行ったんだけど、本当に馴染めなかった。いつも外から観察/見学しているような感じだったわ。そのときは本当に自分は演技をしたいのか確信がもてなかったの。ロマンと私が最高の友だちになったのはそのときからね。ある日、彼はある本の話をして、私にそれを読ませるために持ってきた。私はそれを読んですごく気に入ったわ。それこそが『ダーバヴィル家のテス』よ。彼は言った、『この映画を作るかもしれないんだ、そして君が主役にふさわしいと思ってる。でも君はいまのアクセントをなくさなくちゃいけない、それだけじゃないよ、頭のてっぺんから足のつま先までこの主人公になりきるんだ』って。だから彼は私をイギリスのドーセット地方に送ったの、そしてしばらく田舎暮しをしてから正しいアクセントを学ぶためにロンドンのナショナル・シアターに通った。役をもらえるかどうかもわからずにね。ロマンは私に主役をやらせるのが本気だと言うことを、絶対に私が気付かないようにしていた。私たちは電話ではめったにそのことについて話さなかったのだけど、ついにそのときがきたの。フランスへ行って、これは、と思った。誰にも聞かずにね」
「監督として、ロマンはとても人情深いと同時にとても頑固ね。ロマンは人々の感情の奥深くまで潜り、その核心まで迫ろうとする。本当の詩人だわ。彼はときどき非常に冷酷になるときもある。彼はただただ人の内面に迫りたいのよ。彼は映画の登場人物全ての分身なの。彼がテスでもあり、エンジェルでもあり、田舎の風景でもあり、作品の全てであるということ。みんな彼がボスだと思ってる。素晴らしいことよ。私は誰がやっても同じというような監督は求めていない。ロマンが私にくれた素晴らしいプレゼントというのは、とても長い時間、平穏な状態に置いてくれたということ。私にとって最も大切なのは自分自身を見つめ、その土地の人としての時間とリズムを知ることだと彼は知っていたのよ。私たちは実際、映画の非常に細かいことまで話したわ。彼は私にはこれができるはずだ、悩むことには何もない、と思わせてくれた。彼はこのストーリーに喜びというか愛情みたいなものを感じていたわ。『テス』は大衆の邪悪性についてのお話よ。法律や社会がどのようにして純粋な人々を滅ぼしていくのか、純粋で真摯な人々がどのようにして蜘蛛の糸のような罠にはまっていくのかということを描いているの。テスは何が起ころうとも負けなかった、とロマンは私に言ったわ。彼女は復讐の心を胸の奥に閉ったの。彼女はいつも平常心で、いつものことだと自分を何度も押し殺した。彼は当初、テスは奥さん(チャールズ・マンソンによって殺された女優、シャロン・テート)にやらせようとしていたけど、そのことは私には複雑すぎる問題ね。彼はあまりにも悲しむのはやめようとしていた。彼女がテスだった、彼女はいつもそこにいて、どんなことがあっても彼と一緒だったの、他の人にとっては私がテスに見えたとしてもね。ポランスキーは無の状態になり、生まれ変わった。彼は新鮮に、まるでいまさっき生まれて、初めてそれを見つけたみたいに、本や演技、映画でやりたいこと、全てについて話したわ。でも彼は何百年もの歳月を生きてきたような人でもあった。彼は常に覚醒していたのよ」
『テス』は私自身が、私の考えで、私のやり方で本当の意味で向き合った作品だった。田舎の、本物の田舎といえるところでの1年間の暮らしは、いろいろな意味で私を変えたし、自分自身に近づいたような気がする。あらゆるものが取り除かれた、たくさんの花と山々という大草原のど真ん中に私はいた。その前はというと、どんなときも忙しくて自分と向き合う暇もなかったの。朝の5時に草原の真ん中に坐って日が昇るのを見たり、草がサラサラ揺れる音や、私自身の鼓動、血の流れる音まで聞いたりしていた。それまではそんな音が聞こえるとは思いもしなかったわ。自分自身に立ち返ることに夢中になって、一言も喋らずに、ただ「人生の流れ」というものに浸っていたのね。あの本は私にとってドラッグのようだった。何かにつけて何度も何度も読み直していたわ。その度に新しい発見があるし、主人公について理解できていなかった部分がたくさんあることに気付くの。とても綺麗に澄んだ河の水のように、私の全身を彼女のキャラクターに溶け込ませることができる。生まれ変わったような体験だったわ。『テス』は私がいままでやってきたもののなかで最高のものね、それは演技という点だけでなく、おそらく最も純粋で美しい体験だったと思う」
キンスキーは『ワン・フロム・ザ・ハート』の役を演じるため、綱渡りのアクロバットを習得することになった。彼女は語る、「ホントに低いところから始めたわ。綱渡りというのは、直線を歩くということではないのよ。この世で最もタフな感覚の世界とでもいうのかな。重力によってどこかへ落とし込まれちゃうという状態で、究極のバランスというものを真剣に見つけなければいけない。そりゃあ焦るわよ。何度も失敗して落ちた。そのうち、自分が上へ釣り上げられるような、なにかプラスの力みたいなものが外側から働いているようなイメージが浮かびあがるようになって、そのイメージが私にマジックのように作用したの。私はサーカスの人たちが大好きだった。実際に、全てを捨ててサーカスに行きたいと考えたこともあったのよ。彼らって1本の細い糸に命を懸けてるでしょ。失敗したらどうなるかわかっていながら、誰もそこから逃げずにいつでも目の前のもの立ち向かってる人たちよね」
『ワン・フロム・ザ・ハート』に続く、1982年2つめの作品は『キャット・ピープル』だった。彼女と監督のポール・シュレーダーはごく短い恋愛関係にあったのにもかかわらず、2人は最後の最後まで激しく意見が食い違っていた、特にヌード・シーンにおいては。彼女は言う、「あの作品のやり方には納得がいかなかった。『キャット・ピープル』での私の演技は何から何まで気に入ってない。私としてはもっと乱暴なやり方で、猫族の人々に魂と情熱を注ぎ込むつもりだったの。ああいったところでは誰も血や肉にまみれることなんて気にしないでしょ? 監督の言うことを素直に聞いてしまったことを後悔してる。反論するべきだったのよ。私は彼の方針に従ってしまった。シュレーダーの考えが正しいという空気に染まってしまっていたのね。それまでは監督がやれと言ったことはやらなきゃだめだと思っていたのだけど、できなかった。演技には自分の個性や考えを注ぎ込むものでしょ。私はそうしなかった。自分で自分を罠にはめたのよ。後悔はしてない、私たちが行くべきところに行かなかったということを除いてはね」
私がジョン・ハードを誘惑するというシーンで、私は向こう側に廻って、パンツを下ろしたでしょ。私はシュレーダーに、そんなことやるべきじゃない、ただ演技をするだけでいいじゃない、って言ったの。シュレーダーは、やるんだ、と言ったわ。大事な部分は見えないさ、とにかく、すごく暗いから大丈夫だってね。すごく暗いなとは私も思った。でも、私ができあがったフィルムを見たとき、彼はバッチリ私のヘアを、何から何まで撮影していたことがわかったのよ。それからシュレーダーに言ったわ、「何も見えないって約束したじゃない!」って。編集してよ、と頼みもした。たかだか2秒ぐらいのシーンよ。彼は「だめだ」と言って、カットしようとしなかった、作品の芸術性が損なわれるとか言ってね、最低よ。それから彼は必要のない、主人公の魂の奥深くに迫らないようなシーンは全部カットしようとした。彼がヌード写真を他で使うために持ち去ろうとしたときは、、私はユニバーサルのお偉方にに助けてくれと頼みにまでいったのよ。彼らはみんな笑顔を浮かべて言ったの、「お力になれると思いますよ」ってね。でも彼らは全員、シュレーダー側の人間だった。あの作品でヌードになることに同意したのは認めるわ。でもヌードばっかりが先行したし、私もやりすぎたのかもしれない。あの作品がラストに向かうにつれ、何が大事なのかといえば、猫族の人たちの視点や感情でしょ。すべてが終わった後で彼が私に嘘をついていたことがわかって、どんなにショックだったかわかる? 彼は自分のやってることがはっきりわかっていたの。私に嘘をついて、最初からああゆうことをやらせるつもりだった。この映画にはホント幻滅させられたわ。この出来事があったんで、作品選びにはもっと注意しなきゃダメだと思うようになった。私は彼らのおもちゃじゃないんだからね。素晴らしい監督と仕事しているときって、その監督に信頼をおけるものでしょ。逆にそうでない人との場合は、自分で一生懸命やって、その状況を切り抜けるしかない 」
自分の演技はすべて直感でやっている、とキンスキーは語る。「私は何かやってみようとするときいつもこう言ってるの、『私はこれがやりたい、いまこそ私の本領を発揮するときよ』ってね。上手くいかなかったときでもそう。そしたらもう現実を受けとめるしかないじゃない? 私は演技というものがよくわからない。自分がいまやっていることしかわからないし、ときにはそれさえもわからないときがあるぐらい。演技って勉強すればいいというものじゃないし、例えば参考書みたいなものがあっても、何の役にもたたないと思うわ。そんなものがなくたって良い演技ができるはずよ。もちろんできない人たちだっているわけだけど。そういう人たちは若いときの勢いだけで評価されてる。その勢いが弱まったとき、演技が前面にくるんじゃないかな。私が演技に開眼するときは、私はただ立ち止まって、何かすごいことをやっているでしょうね。私はもっと良く、ビッグで、精神的に強く、深く、明るくて、柔軟でありたい。でもそうなれる瞬間がきっと来るのでしょうね。(本物じゃない)木でできた馬に乗ろうとするのは意味の無いことだわ」(第3回に続く)
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