PART 5 (pp.123 - 127)

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クラウス・キンスキーはインタビューを受けるのに乗り気ではなかった。電話で彼はこう言った。「ただ自分の子供に夢中なだけなんだ。誰だって自分の子供が一番可愛いと思うものさ。特に長所がなかったり、目立った振る舞いをしなくてもね。俺にはあの子がこれこれこういう子供なんだ、なんて言うことはできない。ただ単に、あの子が赤ん坊だろうが、3歳だろうが、4歳だろうが、5歳だろうが、10歳だろうが、17歳だろうが、あるいはハタチであろうが、どんなときでも愛情をもって接してきたってだけだよ。何の違いもないんだ。語るべき幼少時のストーリーなんてものはないね」。数回の電話のあと、彼は私と会うことに同意してくれた。彼はサンフランシスコの北部、マリン・カウンティに住んでいる。ゴールデン・ゲート・ブリッジが横断している街、サウサリートのイタリアン・コーヒーショップの階段にて我々は待ち合わせた。彼はそれほど背が高くなく、5フィート6インチ、あるいは5フィート7インチ(およそ167cmから170cm)あるかなという感じ。きれいに色あせたブルーのジーンズ、フードのついた白のコットン生地にブルーのストライプが入った上着、膝まである黒のラバー・ブーツを履いていた。ずいぶん日焼けしているように見える。髪は完全に白髪。唇の曲線はナスターシャのそれと瓜二つだ。大きな蒼い瞳は、捕われた檻から脱出しようとする野獣のように1秒毎にぎらついている。2本の前歯はまるで入れ歯のように見え、やはり檻から脱出しようとする野獣の歯擦音のようなものを常に発している。彼は口唇炎にかかっていた。それを腫れとそのスーッという音を、地獄、あるいは神のみぞ知る彼だけの秘密の隠れ家への誘いのように考えるのはちょっと無理がある。独特の説明言葉は無意味で、日常から逸脱しているのにも関わらず、彼は休むことなく話し続けた。「いくつもの言葉が俺を引きつけて、日常から引き離してしまうんだ」と彼は語り、突然素早い動きで自分の腕が切り刻まれ、切り離されるジェスチャーを見せてくれた。我々はジャパニーズ・レストランでランチをとり、彼は寿司の盛り合わせを注文した。彼はカウンターごしに、自分のマグロがあらかじめ準備されていたことについて気弱そうなオーナーと議論を始めた。彼は私にメモをとったり、テープレコーダーを使ったりすることを許可しなかった。話を始める前に、何を知らせるかは自分が決めると言ってきたのだ。その代わりに彼はこの世界の自然について、言語について、ジャーナリズム(最悪な言葉だ)についてとりとめなく話した。そしてナスターシャについては次のように語った。「あの子はほんとに若いし、幼いし、子供じみてるし、外見よりずっと子供なんだよ」「あの子は生まれる前から俺の娘だったのさ」「俺は自分を正当化しようとか自己弁護しようとかなんて思っちゃいない。俺はずっと自分がやるべきことをやってきたんだ。あの子は俺からどんなに愛されているか、ずっとずっと愛されてきたか、思い知るべきなんだよ。この歳月の重みってのは言葉じゃ言い表せないものなんだろうけどな。年月を経るごとに、言葉ってのはどんどん陳腐になっていくものなのさ」

ランチのあと我々はイタリアン・カフェへ戻ったのだが、クラウスは今度はカプチーノが出てくるのが遅すぎるといって、ウェイターと口論を始めた。この出来事は彼が世間の間違いについて論じるきっかけとなった。その後彼は、自分の住んでいる街ではもっと気楽に話したいのだと言った。この街は静かだし、閉所恐怖症に陥ることもないから、と。我々は彼の4輪駆動のトラックに乗り込み、話を始めた。後部座席には彼の7歳になる息子、ナンホイ(クラウスの半分の年齢のベトナム系女性と3回目の結婚をし、生まれた子供。既に離婚している)のおもちゃが散らかっている。(ナンホイは母と暮らしているが、定期的にクラウスと会っている)運転席の後方には、色付きの紐がぶら下がった小さなレザー・シューズ、小さな茶色のカウボーイ・ハット、バスケットボール、フットボール、サッカーボール、オークランド・アスレチックスの緑と黄色のサテン・ジャケットがあった。マリン・カウンティの丘から彼の家までの45分間のドライブで、彼はより多くのことを話した。「必要なのは、生命、愛、生命、死さ」「俺が死ぬ日も、俺が生まれる日も、何も変わらないんだ」「俺はシンプルになりたい。シンプルに」「俺が誰かと生きるなんて不可能なんだ」「風があるとき、俺は音楽は聴かない」「ナスターシャは俺の一部であり、俺も何かの一部だ」。彼の話は、自然におけるヴァイブから、霊魂の再生にまで及んだのだった。

私たちは最終的に彼の家の近くまでいき、丘でエンジンをかけた。窓の外では牛たちが牧草を食べている。森へ入ると、舗装された道はなくなってしまったが、非常に深い轍でできた小道があった。鹿や兎がそのへんを走り回っている。我々は、彼の息子のために植えられた木々で囲まれている10フィートほどの高さの白いインディアンのテントのそばまで乗り付けた。そして最終的に、丘の頂上に位置するこの家に入っていった。彼が自分で通り抜けるために打ちつけたもの以外にはドアへの道はない。この家は完全木造のワンルームだ。壁のひとつが丘と林を見渡せるバルコニーへ続く全面的な窓になっている。メインルームの一部にはモダンなバスルーム、壁の反対側にはモダンなキッチンが組み込まれているという具合だ。しかしそれらはまるで、子供のおもちゃの家か、木の砦に踏み込んでいくかのようだった。そこらじゅうにおもちゃ──大きいオレンジ色の紙製の虎の凧が壁のひとつに吊るされ、その隣には色とりどりの巨大な紙製のトンボが飾られていた──が置いてあるのだ。木でできた子供用のデスクはカラーペーパーとクレヨンで覆われ、脚輪付きの低いベッドには小さい男の子用の衣服、ブルージーンズの短パン、数枚のシャツが丁寧に折り畳まれて置かれている。フレームに収められたナンホイの写真が「パパへ、愛してる」とサインされた子供のお絵かきと一緒にそこらじゅうに飾られている。床には1足の小さな木靴が、その隣には大きいタイプの木靴も置かれていた。もうひとつの壁には雪靴もかけられている。ロフトへ上る木製の螺旋階段にはたくさんの窓があり、ロフトにはシーツなしのキングサイズ・ベッド、グリム童話、ルイ・ヴィトンのバッグが1組。メインルームのベースとなる家具は大きな木製のテーブル、これには2つのベンチシートとタイプライター、印刷紙のセット、ニコン製のカメラ、 そして電話機が積まれていた。暖房としては、暖炉がひとつあるだけだ。

それは会話というよりもむしろ、クラウス独壇場による2時間の暴言大会だった。彼は自然体かつパワフルな男である。私の顔は直射日光で日焼けしているみたいに熱くなった。彼の虚像のモノローグはニジンスキー、ボードレール、批評、フランス人が「天才(genius)」という言葉を使うこと、競争、監督たち(「彼らは雨が降った後のキノコのように育っているところなんだ。俺に死に方、泣き方を教えてくれるやつはいないのか?」とのこと)、ヴァン・ゴッホ、そして最後にナスターシャに及んだ。「『テス』を見たんだが、俺は非常に深いショックを受けたよ。この深さ、この沈んだ感じはなんなのか。俺は作品の質なんてものを気にかけない質だったんだ。でもこれは…この感じを言葉にしても陳腐ってものさ、それが人々にこう聞かれても俺が決して答えない理由なんだ──「娘さんを誇りに思わないんですか?」ってやつ。 誇りってどういう意味だよ? てめぇはてめぇが好きなやつを誇りに思ったりすんのか? 道路の真ん中で立ち止まって赤ん坊を連れた女性に「ちょっと君、自分の子供が好き?」とでも聞くのか? どういう意味だってんだ? 聞かれたやつは「助けて! この人オカシイです!」って叫ぶだろうよ。カンヌ映画祭であの映画は上映されてて、ホテルには『テス』のポスターが貼られていたんだ。あのポスターの前を通り過ぎるときは俺は顔を下に向けるしかなかった、こんな風にね。よくわからないけど、それぐらい俺の感動は強いものだったんだ。ショックだったよ。あれを見たとき、いままでの人生でもほんの少ししか味わったことのない感覚がよみがえってきたんだ。ショックで、涙が出てきて顔を覆ったぐらいさ。誰かが俺のそんな姿を見ているんじゃないかとビクビクしたんだけど、どうしようもなかった。ただあの子がスクリーンに現れるだけでそうなってしまったんだ。なかば強制的にね。何も考えられなかった。そのずっと後でやっと、「ショック」という言葉が頭の中に浮かんできたんだ」

「俺が見たのは『今のままでいて』と『テス』だけなんだ。あの子に俺が出た映画を全部見たか?なんて聞くことはあり得ないしね。(クラウスは180本以上の作品に出演してきた。そのほとんどは金のためにやった仕事だが、彼はそれを誇りに思っている)そんなのは考えたことがない。なんで俺があの子の出た全ての映画を見なくちゃならないんだ? なぜだよ? 俺が退屈だと思っているやつともあの子は仕事をしてるしね。そういうのも、監督が誰々だとかも気にならない。あの子が映画の中でとても輝いてたとしても、それは監督が誰とかは関係ない、あの子自身の力だよ。だからこそ、あの子の映画を見なくちゃいけない理由がわからない。俺がメクラにならないかぎり、俺に盲導犬は要らない。メクラになったとしたら盲導犬が欲しいけどね。とにかく俺はメクラじゃない。だからあの子の映画を見る必要はない。自分の子供のことぐらいよくわかっているよ」

「俺はいままで多くの間違いを犯した。ナスターシャだけじゃなくて、もっといろんなことに対して良いことをすべきだったんだ。誰かが『あなたがいままでやってきたことは全て間違いよ』と俺にいったなら『ああ、きっとそれは間違っちゃいない』と答えるだろうね。でも俺が存在する限り、俺は俺のやり方でやるしかないんだよ。俺は何が真実かを理解するために、物事を感じ、表現するんだ。いままで俺を変えようとした人たちもいたけど、そうすると俺はキレてより暴力的になるんだ。『なんだ? 本気で俺を歪めようってのか?』という具合にね。何が言いたいのかというと、要するにみんな自分のやり方を貫く必要があるってことなんだ。俺が人生で100万回の間違いを犯した、って俺に伝えるために聖書なんか必要ない。いままで犯した全ての間違いに俺は長いこと苦しんでいるんだ。数年のあいだ、それは俺に降りかかってくる。自分が間違いを犯したことについて恥じてはいないが、俺がそれを理解するための方法は常にひとつしかないんだ。俺が言いたいのはつまり、『努力はした、そう、努力はしたんだ、アタマをぶっ放したりはしなかったぜ』ってことさ。植物の成長みたいなもんだよ。こういう些細なことがわかると、みんなそれを理解するようになる。つまり、あの子が今日理解していることよりも、より多くのことをいつの日かあの子は理解するようになるだろうということだよ。誰も俺のところへ来て『なぜこれを見たことがないのですか? なぜ? なぜ?』なんて聞くことはできない。俺は自分が何をすべきかわかってるんだ」

「俺はあの子を小さな子供として尊重しているよ。俺は自分の方が大きいからといって誰かに順番をつけようなんて考える人間じゃないんだ。そんなの馬鹿げてるよ。俺の頭の中には政治も宗教も存在しないんだ。ナスターシャは愛情の中で育ってきた、といってもそれはあの子の母親からのものであって、俺がそばにいなかったばかりに俺の愛情というものは忘れているかもしれないけどね。最初から、ごく自然にあの子は俺の一部だった。あの子のことを特に見ていなくても、あの子の存在を感じるんだ。動物が眠っているあいだも自分の毛皮で子供を守っているようにね。彼らは特にそこを気にかけていないように見えてちゃんと守っているんだよ、自分の腕でね。それが自然ってものさ。人間という生き物はその距離を話すことによってだけ埋めようとする。あの子が小さいころ、俺はあの子に何の夢も託さなかったよ。流れ星をみたとき君は何か願い事をする? 俺は子供のころからトライしてきて一言もいえたことがないんだよ。俺の願いは簡単な言葉では言い表せないものなんだ。すごく長くなってしまう。だから、あの子に何を望めっていうんだ? 俺があの子に持っているのは鳥が飛び立つときのような深い感情だけだよ。夢なんてものは非常に限定されたものにしかなり得ないんだ」

6章に続く

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