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母親に80年代のスクリーンの妖精=ナスターシャ・キンスキー、父親に怪優=クラウスをもつ美少女ソーニャは、この俳優一家に自分の名前を付け加えようとしている。
この若い少女になぜ懐かしさを感じるのか正確に把握するのは時間がかかるかもしれないが、彼女が放つその大きなブラウンの瞳、綺麗なオリーブ色の肌と子馬のようなセクシーさは80年代前半にさまざまな役で人々を魅了したある女優を思い起こさせる。
『テス』や『キャット・ピープル』、『パリ・テキサス』といった作品に出演したナスターシャ・キンスキーは、その世俗的な美しさで注目され、彼女の娘であるソーニャは明らかに母親の美貌を受け継いでいる。それに加えて、どんな状況でも自分が魅力的であるように振舞う方法も受け継いでいるのだ。彼女は、南米で行われたローリング・ストーンズのコンサートに行っていて、これが延びたため、我々の撮影には遅れて到着することになった。しかし彼女は非常に申し訳なさそうにし、遅刻の弁解などせず、それに向き合ったので、誰も彼女を責めようとはしなかった。
彼女の母親はヨーロッパ的なクールさを漂わせているが、風が吹くと身に着けたアクセサリがジャラジャラ鳴る19歳のソーニャは、気ままなカリフォルニアの若者の典型である。トミー・ヒルフィガーの新作のために行ったモデルの仕事は彼女の役作りを助ける撮影となり、彼女はその衣装にすぐに夢中になったという。「わー、なんて綺麗で、若々しくて、フレッシュな洋服!」と彼女は思った。「トミーとの仕事は全部すごく楽しかった。彼のスタイルはすごく変化に富んでいるからね。彼はボールガウン(夜遊び用の服)からロックっぽいのまでデザインするし、しかも誰でも着られるような服を作ってる。私がフツーにモデル業をこなしていられるのは、人が自分の外見に頼らなくちゃいけないということに反対だからなんだけど、トミーのモデルをやるのは彼の作る服が大好きってのと、何もないところからビジネスを始めた彼を尊敬しているからよ」。ソーニャは5年前ビバリヒルズの一支店が開店したときにヒルフィガー氏に出会った。「そのときは母と一緒で、母の方から彼の方に向かっていってこう言ったの、『前々からお会いしたいと思っていました』って。私はまだ14歳だったし、緊張していたんだけどトミーは私を見て『君はトミー・ガールになるべきだね』って言ったのよ」
「それ以来、私たちは連絡を取り合っていて、パリとミラノの支店の開店イベントに立ち会ったの。彼はいつでもすごくロックンロールな人だったわ」とソーニャは語る。「(ローリング・ストーンズの)ロニー・ウッドがロンドンのトミーのお店で個展を開いていたはずよ」と言ってソーニャはクスクスと笑った。彼女はまだストーンズ公演の余韻を引きずっているようだ。「ホントにサイコーだったし、後でミック・ジャガーともお話できたし、みんな超クールだった。いつもは、どんな人も大して変わらないと思うんだけど、ミック・ジャガーとジミー・ペイジだけは特別ね。ミックはホントにクールで、落ち着いてて、それでいて謙虚で、何年か前にママをデートに誘おうと思ったなんてことを言うの。彼がそのことを語り始めたのよ!」。トミー・ヒルフィガーのモデルを務める傍ら、ソーニャはこう主張する。「私はモデルとは言えないわ。どちらかというと、写真家であり、絵描きであり、女優だと思う」。女優業を始めることについて疑念を抱いていることは認めつつも、彼女が役者へシフトしようとしていることについては驚くことでもなんでもない。彼女の母親であるナスターシャは30年以上にわたってその業界で活躍してきているし、祖父である故・クラウス・キンスキーも『ノスフェラトゥ』『吸血鬼』あるいは『フィッツカラルド』といった(すべてヴェルナー・ヘルツォークによる)作品ですばらしく型破りな演技で知られているのだ。
実は、ソーニャとその有名なドイツの映画監督との出会いこそが彼女に家業を継がせるきっかけとなっていた。
「そういう家系のことが理由で、もともと私は役者という仕事を敬遠していたの」とソーニャは語る。「だけど最近ヴェルナー・ヘルツォークと会って、彼が私が役者を始めるきっかけだったんじゃないかなと思った。彼は祖父と多くの仕事をしたし(ヘルツォークはそのエキセントリックな俳優をコントロールできる唯一の監督だと言われている)、彼と話すことにすごく興味があったから。私が祖父と会ったのは、祖父が亡くなったとき、私が5歳のときだけだけど、1人の人間として祖父を近くに感じられなくても、『フィッツカラルド』とか『ノスフェラトゥ』を観れば、祖父が凄い人だということがわかるわ」
「母は長い間、私にとっては母でしかなかったのだけど、役者に興味が出てきたとき、母の出演した『テス』や『パリ、テキサス』を観た。母もやっぱり才能のある人だと思ったわ。でもいまは、個人的に「演じる」ということに魅せられているの。最近アル・パシーノと話す機会があったんだけど、」と彼女はそのスターの名前を事も無げに発し、「演じるということはもう遺伝みたいなものだよ、と私に言ったの」と肩をすくめてみせた。「私は、もうすぐ何かを始めることになると思うし、人は私と母、私と祖父を比較するようになるし、私のことをただの七光りだという人も出てくるでしょうけど、そんなの気にしないわ」。ソーニャは現在、新しい自分の技術(そこには「いくつもの可能性」があるが、現時点では必要以上にその内容を公表しようとしない)を磨いており、すっかり役者というものに魅せられているようだ。
「まだ自分にとっては仕事という感じじゃないの。いくつかのシーンを母と練習してるんだけど、彼女もいつも協力的なのでアドバイスをもらうようにしてるわ。母は私に、慎重にやってだとか、言動に気をつけなさいとか、自分自身にも気を使いなさい、みたいなことを言ってくれるし、逆に直感を信じて突き進めと言うこともあるの。私はそれまで自分はすっかり自立していると思っていたけど、母の方がこのビジネスについて経験があるわけだし、彼女の言うことには耳を傾けるようにしてる」。確かに、ソーニャに注意することが俳優業の落とし穴について警告できる人物といったら、彼女の母親なのだろう。
ナスターシャの父親であるクラウスは、ナスターシャが8歳のときに家族のもとを去り、取り残された娘は父の後を追って13歳で映画の世界へ入る。自分自身の判断でナスターシャは成長し、年上の男たちとの関係を築いていった。彼女いわく「私はいつも父親の姿を求める子供だったから」だ。彼女が15歳になったとき、『テス』の監督であるロマン・ポランスキーに出会ったのは最も注目すべき出来事だろう。ソーニャがいままさに言いたいことというのが「2人に関するプレスの記事の多くが過剰に演出されていると思う。だって、私は2人がいまでも良い友達関係だということを知ってるもの」ということである。ナスターシャが出演した一連の作品──『ホテル・ニューハンプシャー』やアル・パチーノと共演した『レボリューション』──に続いて、1984年に彼女は映画製作者のイブラヒム・ムッサ氏と結婚し、ソーニャと兄であるアリョーシャ(現在21歳)という2人の子供をもうけた。8年後、結婚生活は辛辣な終焉を迎える結果となったが、ナスターシャは1993年に伝説的な音楽プロデューサであるクインシー・ジョーンズとのあいだに娘ケーニャをもうけた。現在ナスターシャは再び独身に戻っているが、ソーニャによるとデビッド・リンチの新作への出演を終えたばかりだという。
「いつもママと撮影現場に行っていた」とソーニャは回想する。「幼かったということもあるけど、現場は退屈だと思っていたわ。ママはいつも最高のスタッフと仕事をすること、自分を最後まで守り抜くことが大事だと私に言い聞かせていた。特に異性関係のこと、男性が私をどうもてなすかを気にしていた」。
「私に彼氏ができたときはいつでも、ママは相手の電話番号と住んでいる場所を聞きたがった」。1986年3月2日にジュネーブで生まれたソーニャはその後ローマに移り住んだ。再びカリフォルニアに移住するまで彼女はそこで7歳まで過ごた。「文化に活気があるからヨーロッパは大好き」と彼女は語り、「今までの全ての旅が勉強になったわ。ママはヨーロッパですごく知名度があるからパパラッチが定期的に追っかけていたけど。ママはできるだけプライベートは穏やかに過ごして私たちを育てようとしていたけど、いずれにしろ私はそういう慌しい日常のなかで育ったの。最終的にロスに移ることになったとき、最初は大変だったわ。なにしろ私はイタリア語しか話せなくて、英語は全然だったから。結局は思ってたより簡単に友達ができたんだけど」。1992年の渡米を決定的なものにしたのはナスターシャ・キンスキーとクインシー・ジョーンズの急接近だったが、それに続いて彼女が直面したムッサ氏との親権争いは残酷なものだった。「私はいつもママとすごく親密だったわ」とソーニャはいう。「だからあの離婚をめぐる全ての報道が私に影響を与えたのは確かね」
「ママは最大限、最後の最後まで私たちをマスコミから守ろうとした。そういう過程を経たからこそ私は強くなったと思う。ネガティブな時期だったけど、できるだけ全ての物事をポジティブに捉えようとしたわ」。一方、ソーニャはティーンエイジならでは反抗期もあったことを認める。「遅くまでクラブにいたりだとか、パーティをやっているのが普通だったの。両親をめぐってマスコミやらなんやらが押し寄せてきた、っていうことも影響していたと思う。でもクインシーは私にとても良くしてくれたし、必要なときはアドバイスをくれたりもするわ」
「彼は私に、自分のこと、自分の人生は自分で責任をもつこと、物事をはっきり捉えるための術を教えてくれた。実の父に会うことができなくなったときは、私にとって第二の父親だったし、いまでも彼とはすごく仲が良いの」。1993年、ナスターシャはクインシーとの娘、ケーニャを出産した。このカップルもその4年後に別れることになったが、キンスキー家はジョーンズ家の隣に居を構え、父親がいつでも近くにいられるようにしているのだ。「私たちはみんな仲が良いし、私自身は実の父とも仲良くしている」とソーニャは語る。「父とは、他の家族にもよくあるような問題があったのは事実。父はそのときどきでベストを尽くしていたし、尊敬できる父がいる私はラッキーだと思う」。1時間ほど彼女と過ごしていると、ソーニャの中に、チャーミングさと、年齢不相応ともいえる明確なセンスと調和した若者らしい奔放さに矛盾を感じるようになる。やはり、彼女の母親と比べざるを得ない。
5年前、ナスターシャ・キンスキーが体に蛇を巻きつけて横たわる、という有名なリチャード・アヴェドンによる写真の20周年を記念して、ソーニャが写真家のミッシェル・コントとその偶像的な写真をリメイクするという出来事があった。「当時私は14歳で、めちゃくちゃ恥ずかしかったし、とても居心地が悪かったわ。ミッシェルは私のお気に入りの写真家の1人だけど、正直言ってなぜああゆうことをやったか自分でもわからない。過去の作品を再現するのは不可能なのにね。現場にはママも最後まで付き添ってくれたし、美しい写真が撮れたけど…うーん」と彼女は黙ってしまった。「あれをもう一度やろうとは思わないってことよ」。彼女は真面目に写真家、画家、そしていまは女優を目指しており、『シンプル・ライフ』のパリス・ヒルトンやニコール・リッチーの2人と仲の良い時期があったのにもかかわらず「TV関係のこと全部」、そして「誰々の娘」といったことが嫌でしかたがないという。「他人の期待に応えながら生きるのは大変でしょう?といつも言われるんだけど、私は私なりにやっていきたいだけなの」と彼女は笑う。「私という人間を知ってほしい、というだけね」。